今夜は眠れるかな

木村リュウジのブログ。神経症患者としてでなく、ひとりの人間としての日々の思い 。俳句が好きです。Twitter→(https://mobile.twitter.com/ryjkmr)

金子主宰のこと、大道寺将司さんのこと

 

‪(Twitterに連投ツイートしようと思っていた文章をまとめて、記事にしてあります。)‬


‪金子主宰の訃報と、ついに生前お逢い出来なかったことについてずっと考えていて、殆ど眠れていない。‬
すみません。子供っぽい話になるけど、少し話します。話すというか、吐き出します。


‪そもそもオレが俳句に興味を持ったのは、大道寺将司さんの句を知ったことがきっかけ。‬
大道寺さんと東アジア反日武装戦線をテーマに卒論をまとめた。
その後、その卒論を大道寺さんに読んでもらう機会があった。


‪それは、卒論を提出してから1ヶ月後くらいに太田昌国さんに会ったとき。太田さんに卒論のことを話すと「是非読みたい」。早速、卒論のデータを送った。‬
そうしたら、太田さんはその卒論を大道寺さんに伝えてくれた。大道寺さんも「体調が良くなったら読みたい」と返してくれたという。嬉しかった。


‪体調、というのは、大道寺さんはそのとき多発性骨髄腫を患っていたから。‬
オレは卒論を読んでもらいたい思いもあって、大道寺さんの回復を願った。
でも、それは叶わなかった。去年の5月に大道寺さんは亡くなられた。
お葬式のとき、棺に卒論を納めたのがせめて出来たことだった。


‪大道寺さんには『キタコブシ』という支援誌があったんだけど、何故そこにもっと早くハガキを出さなかったのか、と遅すぎる後悔をした。‬
オレが初めてハガキを出したのは去年の1月。大道寺さんが意識不明になって「なんとかしたい」と思ったから。東京拘置所への差し入れも、それと同じ月に初めて行った。


‪もっと早くにハガキを出していれば、大道寺さんと色んなやりとりが出来たのに。‬
もっと早くに差し入れをすれば大道寺さんのためになったのに。
或いは、卒論は無理でもその前段階のレポートは読んでもらえたかも知れないのに。
そういう遅すぎる後悔が、頭のなかを巡った。


‪それから、卒論に加えて欲深いと思うけど、大道寺さんには俳句も読んでもらいたかった。最初に影響を受けた俳人だったから。‬
事実、大道寺さんの晩年の『キタコブシ』には大道寺さんに影響されて俳句を送る人もいた。大道寺さんはその一句一句を丁寧に鑑賞していた。
何故その流れに乗れなかったのか。


‪話は大道寺さんから少し変わるけど、俳句を詠み始めて何ヶ月かした頃、段々と結社というものを意識し始めた。そのなかで特にオレが興味を持ったのは「海程」だった。‬
しかし「海程」に入りたいと思った矢先、終刊が発表された。大道寺さんの訃報より数日だけ早くて、殆ど同じ時期だった。


‪「いま『海程』の句会に行かないと、後悔する」と思った。終刊する前に、金子主宰や「海程」の会員にお逢いしたかった。‬
大道寺さんのときに感じた遅すぎる後悔を、繰り返したくない。その思いが根底にあった。


‪その後、去年の7月に初めて「海程」の句会に参加出来た。嬉しかった。‬
しかし、「金子主宰は体調と年齢の関係で、いらっしゃいません」と司会の堀之内長一さんから説明があった。
句会には主宰がいて当たり前だと思っていたから、ショックだった。


‪でも、そのときはまだ楽観的だった。「体調が悪い」と言われても、既に97歳だったし、ちょっとのことで死なないと思っていた。‬
けれど、翌月もその翌月も、金子主宰はいらっしゃらなかった。
正直、そうした句会が自分のなかで常態化していった。


‪その反面、「今日はいらっしゃるんじゃないか」という思いも少しだがあった。‬
だから、句会の会場のドアを開けるとき、前にある雛壇席をいつも確認していた。
それでも金子主宰はいらっしゃらなかった。
句会で色んな方と知り合えたのは良かったけど、金子主宰とお逢い出来ないのはやはり残念だった。


‪そして、先日の訃報を知った。‬
もう二度とお逢い出来ないんだという虚無感を強く感じた。
大道寺さんのときの二の舞にならないように、自分でも忙しないくらい毎月句会に参加した。句会用の投句以外にも、毎月「自選一〇句」というA4の紙を持っていった。
それでも大道寺さんのときと同じだと思った。


‪つらい。なんで俳句を詠み始めて2年も経たないのに、本当に自分の句を読んでほしかった人、実際にお逢いしたかった人と別れなきゃいけないんだろう。‬
大道寺さんのときはチャンスを逃した責任を感じている。でも金子主宰のときは、可能なチャンスは全て使った。


‪金子主宰の選は受けてもらった。約半年の間、佳作も二回いただいた。「海程」の他の会員の方とも知り合えた。‬
それは恵まれていると思う。でも、他の方は金子主宰から直に批評してもらっていたのに、自分は同じ場所にいながらそれがついに無かった。
子供っぽいかも知れないけど、つらいよ。虚しいよ。


‪金子主宰の訃報のショックは、自分が想像していたより遥かに大きかった。自分が林田紀音夫や阿部完市といった物故同人に思いを寄せても寂しくならなかったのは、ひとえに彼らを知る金子主宰が生きてくれていたからだと気付いた。‬


‪でも繰り返すように、その金子主宰ももういない。‬
大道寺さんのときの二の舞にならないように、すごく頑張ったんだけどな。遅かったんだね。


‪いま、本当に自分の句を読んでほしかった人を相次いで亡くした虚しさで、自分が俳句を詠む意味が揺らぎつつある。というか、その意味を探している途中で崖から落とされた感じ。‬
またいつか俳句を詠めるようになりたいけれど。
長くなったので、もう終わりにします。金子主宰の話自体もこれで終わりにします。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

佐伯俊男展覧会「雲然」を観に行きました

 

こんばんは


2月16日 金曜日に、渋谷まである展覧会を観に行ってきました。


その展覧会とは、佐伯俊男展覧会「 雲然」。

 

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ちなみに、会場の入り口には「R16」の張り紙があったので、これからブログをお読みいただく方によってはそうした年齢制限を意識したほうが良いかも知れません。

 

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佐伯俊男、と言っても何人の人が彼の名前と絵に見覚えがあるでしょうか。


彼は1970年から画家として活動しています。寺山修司澁澤龍彦丸尾末広等当時の所謂「アングラ」と称される文化人からその作風は激賞されました。


恐らく寺山修司と関係してでしょう、私が佐伯俊男の絵を初めて観たのは、おなじく「アングラ歌手」と呼ばれる三上寛のライブレコードのジャケットでした。


それがこちら。

 

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(画像引用元→https://www.discogs.com/三上寛-コンサートライヴ零孤徒-三上寛1972/master/56766)


地獄絵に見られるような餓鬼が、全裸の女性に真っ赤な花を渡している。しかも、その女性は涙を流している。
餓鬼と女性の関係性や如何に。女性の涙の理由や如何に。餓鬼と女性が白黒なのに対し、真ん中な花だけが赤く塗られているこの絵に対し、私は異様な迫力を覚えました。


それから、この絵の作者が佐伯俊男なる人物であると知りました。


三上寛寺山修司とおなじ青森県の出身です。それこそ寺山修司の映画「田園に死す」に顕在されたような、東北の地が持つ怨念といったものを叫ぶように唄う歌手です。彼の唄う歌は、その唄い方から「怨歌」(えんか)の異名すら持っています。

私は、そうした三上寛の歌と佐伯俊男の絵があまりにピッタリ合っていたために、佐伯俊男も「青森か、少なくとも東北の出身だろう。」と思い込んでいました。
しかし調べてみると佐伯俊男は宮崎県出身、大阪府育ちでした。つまり東北どころか西日本に育った人間だったのです。初めて知ったときとても驚きました。


それ以降、私のなかで佐伯俊男は先ほど述べた異様な迫力を引きずるように忘れられない画家になりました。
しかし、様々な理由からその作品をまとまって鑑賞出来る機会には恵まれませんでした。


それが今回、渋谷で展覧会が行われることを知ったのです。行かない理由が無いと思いました。


会場の入り口には、先ほどの「R16」の張り紙以外にも、「写真撮影可」の張り紙がありました。

 

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SNS時代の潮流なのでしょう。むやみに写真撮影を禁じるよりかは、むしろ撮影した写真をSNS等に挙げ、さらに集客を呼び込もうという狙いだと思います。ともあれ、鑑賞する側としては非常に嬉しかったです。


入り口に入ると、いきなり壁一面ほどの大きな絵が目に留まります。

 

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よくよく近づいてみると、ものすごい絵が壁一面に広がっていました。

 

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今回の展覧会では、絵の下に作品名はありませんでした。
そのため、入り口近くに置かれてある図録からそうした作品名を知るほかないのですが、その図録にもこの大きな絵の作品名は書いてありませんでした。

 

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それにしても、2枚とも何という絵だろうかと思いました。
1枚目ですが、釜茹でにされる全裸の女性と、それを上から見下ろす頭だけの怪物(?)。そして、そうした異様な光景に目もくれず素通りする男子小学生。
ミスマッチとか意外性とか言葉では足りない、それぞれの個性を無理矢理一枚に押し込めたような迫力を感じます。


2枚目は、1枚目と比べて構図はシンプルです。また、1枚目のようなサイケデリックな色遣いも見られません。
しかし、真ん中の竹によじ登っている女子の表情には、やはり異様な迫力を感じます。
なぜ竹に登っているのか。浮かべているのは苦悶の表情か、随喜の表情か。どちらの表情にも感じられます。

 

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入り口に入っていきなり、私はこの2枚の大きな絵に圧倒されました。

 

また、スペースを少し移動すると、小さな絵の展示も何枚かされていました。


そのうちの何枚か、特に印象的だったものを紹介しようと思います。

 

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雨情(あめなさけ)1969年

 

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肉刺繍(にくししゅう)1979 年

 

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肉奴隷(にくどれい) 1981年

 

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狂学(きょうがく)1976年

 

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夕焼(ゆうやけ)1978年


このように、挙げていけばきりの無い性的かつグロデスクな世界観が展開されていきます。
ちなみに、私が写真を撮った作品のなかで最も印象的だったのは「狂学」です。まず描かれている光景ですが、体操着姿で鉄棒に登る素足の女子と、口が避けるほど鉄棒を噛み、よだれを垂らしていてもその女子を見つめることをやめない男子。ものすごいインパクトを感じました。
またタイトルの「狂学」とは、「共学」の言葉遊びでしょうが、「学問に狂った」という意味なのか、「狂ったことを学んでいる」という意味なのか。恐らくどちらとも当て嵌まるでしょう。絵のインパクトと相俟って、様々なことを想像させるタイトルだと思いました。


また、こうした小さな絵は全てモノクロ画でしたが、彩色したものも存在するようで、図録からは佐伯俊男による細かい色の指定が見てとれました。
例えば、これは「夕焼」の図録ですが、このように丁寧な色の指定が分かります。

 

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展覧会に飾られた絵を観て、私のなかに起こった感情を一言で言うのは難しいです。
繰り返すように、佐伯俊男の絵は性的かつグロデスクですが、だからと言っていやらしい気持ちにはなりませんでした。
それは、最初に三上寛のレコードのジャケットで佐伯俊男を知ったときと変わらない「異様な迫力」がそのまま続いているのだと思います。
展覧会の絵を観ながら、そして日にちを経て、こうしたブログを書いているいまでも、私はその迫力に圧倒されているほかないのでしょう。


ただ、その感情に言葉を付け加えるならば、佐伯俊男の絵は決して「エロ」や「猥褻」といった表層的な言葉で言い尽くされるものではないと思いました。
佐伯俊男の絵からは、そうした言葉よりもっと深い、人間の根底にある、理性という皮を剥ぎ取ったような狂気と欲望が見て取れました。


そうした人間の根底にあるものをおよそ50年描いたきたからこそ、決して多くの人ではありませんが、その絵に心刺さる人が今日までいるのだと思います。無論、私もその1人です。


この展覧会は当初2月24日 土曜日までの予定でしたが、3月3日 土曜日までの延長が決まったそうです。
展覧会に行った1人として、より多くの人に佐伯俊男という稀有な画家の存在に触れてほしいと思います。


なお、会場である「NANZUKA」の詳しい情報は、こちらからご確認ください。
http://nug.jp/jp/top/


そして最後は、佐伯俊男の絵とピッタリ合う三上寛の歌のなかから、特に私の好きなこの歌を聴いていただき、その狂気と怨念の止まぬ世界観を感じてほしいです。


三上寛青森県北津軽郡東京村」
https://youtu.be/I6lfJSJ2ow8


では、おやすみなさい。

 

Twitterへの投句について


おはようございます。


今月の16日でTwitterの俳句アカウント(https://mobile.twitter.com/ryjkmr_haiku)に投句を始めてから1年間になります。また、このタイミングで投句した句が200句になる予定です。

それを境に、Twitterへの投句をやめたいと思います。
いままでの句は、ツイートとは別の形で保存するつもりです。


理由は、去年8月にブログで書いた思いが2月までに広がっていったからです。


https://t.co/MzmM0vTuYe


いま自分のこのブログを読み返しても、攝津の作句態度は正しいと思います。
また、辞める覚悟で言えば、「Twitter俳壇」のようなものを最近感じつつありました。俳句は、郷愁やユーモアが含まれているものもあると思います。
しかし、フォロワーの全てではありませんが「Twitter俳壇」にはあまりにもそうした郷愁やユーモアが安直なものが多かったです。


そのなかでも、さらに郷愁やユーモアが安直なもの、ハッキリ言えばゲロ甘な句を詠むアカウントはフォローしませんでしたが、Twitterの「別のフォロワーがいいねしたツイートが自分のTLに表示される」という不要な機能のせいで、時々そういうゲロ甘な句が目に入り「Twitter俳壇」に倦んでしまいそうでした。


繰り返しますが、郷愁やユーモアが安直な句を全てのフォロワーが詠んでいるわけではありません。また、自分のなかにも安直な句はあると思います。それでも「Twitter俳壇」についての印象は、「日々の安穏を五・七・五の鋳型にはめ込んで俳句らしく見せているだけ」というものでした。


そうしたワケで、自分は16日まででTwitterへの投句を辞めます。よろしくお願いします。


これからは、「Twitter俳壇」に倦むことなく、自分らしい俳句を考えていきたいです。


今日はお昼から「海程」の東京都句会です。1人4句提出します。頑張ります。
話は変わりますが、「海程」は金子兜太主宰が主宰を降りて終刊したあと、今年の秋に後継誌「海原」(かいげん)を創刊します。


私は「海原」の会員になるつもりです。青くさいことを承知で言えば、「海原」のなかで現代俳句とはなにか自分なりに考えてみたいからです。
金子主宰がその主宰を降りたあとの「海原」が俳句の世界でどのような受け止め方をされるのかということも、いずれ書いてみたいと思います。

 

句会報告 2018年1月

 

・2018年1月13日 土曜日

 

「海程」東京例会

 

場所 大宮ソニックシティ

総句数 52句

 

提出句

セロリ噛むひとつの恋を終わらせる 木村リュウジ(3点)

 

最高得点句

薬飲む夫(つま)にときおり鶴の気配(18点)

 

自選句

日常の少し上なる白梟

葱包むテロの写真の新聞紙

薬飲む夫にときおり鶴の気配

五つほど身に沁みにけり除夜の鐘

 

 

今後のブログについて

 


こんにちは


昨日、今日と自宅で過ごしています。


少し疲れやすかったり、頭痛が起こることもありますが、おおよそ穏やかに過ごせています。


今日は、最近ブログにつけた機能と、今後ブログで書いていきたいことについて話したいと思います。


まず、最近ブログにつけた機能として、タグがあります。

 

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画像はこのブログで最初に書いた記事ですが、タイトルの下に「神経症関連」とタグをつけました。


タグには「神経症関連」も合わせて、


神経症関連
・診察記録
・仕事関連
・俳句関連
・その他


の5種類があります。


既にはてなブログをお使いの方はご存知かも知れませんが、タイトルの下にあるタグをクリックすると、同じタグの記事がまとめて表示されるので、以前よりブログが読みやすくなると思います。


次に、これからブログに書いていきたいことについてですが、2つあります。


・診察記録


タグも作りましたが、例えば「診察記録 2018年2月」のようなタイトルで、その月ごとの診察記録を記事としてまとめたいと思っています。

いままでは「診察に行ってきました」といった、ぼんやりとしたタイトルでしたが、これからはしっかり月日をタイトルに入れることで、読者の方にとっても、私にとっても分かりやすいものになると思います。


・句会報告


これも「診察記録」と基本的なスタンスは同じです。「句会報告 2018年2月」のようなタイトルで、その月ごとの句会報告を記事としてまとめたいと思っています。

いままでは、「海程の句会に行ってきました」といったタイトルで内容も長い記事が多かったのですが、これからはもっと簡潔な報告を毎月行い、あとで読み返したときに分かりやすいものにしようと思います。


ちなみに、先月の句会報告はこのあとすぐに書く予定です。


というわけで、前回のブログでも書いたように、療養中なのであまり更新は出来ないかも知れませんが、これからもこのブログをよろしくお願いします。

 

 

また療養することになりました


こんばんは。


今日は、少し残念な話をしなければなりません。


私は神経症の診断を受けて、去年の5月の中旬から8月末まで自宅で療養を続けていました。


その後、9月の初めから仕事を探し、紆余曲折はありながら、なんとか昨日まで仕事を続けることが出来ていました。


しかし、今日の埼玉医科大学病院での診察で、また医師から「療養したほうが良い」と告げられました。

今日はそのことについて話したいと思います。


きっかけは昨日のこと。昼休みに昼食をとっていたら、突然派遣会社から電話がありました。


それに出てみると、「今日限りでいま勤めている工場を辞めてもらいたい」と告げられました。
あまりに突然のことで、呆然としてしまいました。派遣会社からは、続けて「それで、次に入ってもらいたい仕事が、また工場なんだけど・・・」と、次の仕事に話されましたが、全くといっていいほど耳に入ってきませんでした。


それでも、「ハイ、ハイ、大丈夫デス」と機械的に受け応えをしてしまいました。


派遣会社からの電話が終わると、急いで近くの上司に訊ねました。「辞めてほしいという電話があったんですが、どうしてですか?」と。


そうしたら、上司はこう答えました。
「ウチの会社はコピー機を製造する会社として、主にネジ締めをやってもらっている。
木村くんにもコピー機ごとのネジの締め方を教えようとしたが、年度末で忙しくて時間が取れない。
それで、いまは部品を磨いたり削ったりする、雑用のような仕事しか与えられない。結果として、申し訳ないけどウチでこれ以上雇うことは出来ない。」


派遣社員はいつでも契約を切ることが出来るということはよく聞きますが、まさに自分はその憂き目に遭いました。
派遣社員として雇われている以上、仕方ないことといえば仕方ないことなのかも知れません。しかし、いくらなんでも勤め始めてから早すぎるとも、突然すぎるとも思いました。スゴく悲しかったです。


上司の話を聞き終わった頃には昼休みも終わっていました。私は、午前中から行っていた作業に戻ることにしましたが、このとき、私のなかにあるはっきりとした感情が生まれました。


死のう。


それまでにも「死にたい」と思ったことはありましたが、それは言わば希死念慮と呼ばれるボンヤリとしたものでしたが、このときの感情は、自殺願望とハッキリ言えるものでした。


こうして経緯を話していると、自殺を考えた理由が「会社をいきなりクビにされたこと」だと思われてしまいそうですが、少し違います。


確かに、繰り返すようにいきなりクビにされたことはスゴく悲しかったです。
しかしそれ以上に、神経症と診断されてから薬を服みながらも頑張ってきた日々がガラガラと音を立てて崩れていく感覚に襲われました。


神経症と診断され自宅療養を経て、派遣の仕事を何件か行いました。その多くが身体中が痛むようなつらいものでした。
その後、やっと固定のアルバイトとして自宅近くの運輸会社に勤めることになりましたが、人間関係のトラブルにどうしても耐えられず辞めてしまいました。
そして、今回勤めることになった工場は、運輸会社を短い期間で辞めてしまったことの反省もあり、1年間は勤めようと思ってました。
それなのに、いきなり電話でクビを告げられました。


5月の中旬から昨日まで、自分なりに積み上げてきたものが一気に崩れてゆくような、あるいはこうした日々がいつまでも続いていくような、強烈な虚しさを感じました。その強烈な虚しさが、自殺を考えた理由になりました。


繰り返すように、その次の日(つまり今日)は診察の予定が入っていましたから、予め工場には休みを申請していました。
埼玉医科大学病院は、山合いにある大きな病院です。最寄りの駅から少し逸れると、すぐ山のなかに入っていけます。


「予めカバンのなかにヒモ等を用意しておいて、診察が終わったら(いや、いっそのこと診察など受けなくても良いとすら考えていました)、その山のなかに入って行こう。
そして、山の樹々から枝の太いものを選んで、首を吊ろう。」
私は、午後からの勤務中、そのようなことばかりを考えていました。


また、家族や友人等、遺書を送る人や、遺体が発見されたとき身元が特定できるように、名前・住所・家の電話番号を書いた紙を上着のポケットに入れておくこと・・・そうした具体的な物事についても考えました。


正直、かなり本気でした。


しかし、それと合わせて考えていたことがありました。


元彼女に電話を掛けよう。迷惑だとは思うが、最期だし自殺の意志を自分の声で伝えよう。そう思いました。
また、最期に元彼女の声を聞いておきたいという思いもありました。


仕事が終わり、元彼女に電話を掛けました。しかし、いざ電話をしていると「死にたい」とは言えず、「いなくなってしまいたい」と話しました。
それでも当然ですが、元彼女に私の自殺の意志は明確に伝わりました。


そして、
「病院に行ってほしい。一人で行かせるのは怖いから、お母さんと一緒に行ってほしい。それだけは守って。」
と言われました。
また、
「落ち着いて。」
とも何度も言われました。


その言葉を聞いて、私のなかに少し変化が起こりました。別れたとは言え、一度付き合っていた相手です。そうした人に嘘はつきたくないと思いました。


「分かった。病院に行く。」と私は言いました。


そして、その次の日(つまり今日)、その通りに埼玉医科大学病院に母親と行きました。
工場をいきなりクビにされたこと、自殺を考えたこと等を、まくし立てるように医師に話しました。
すると、医師から「お母さんもいらっしゃっているようなら、来てほしい」と言われ、急遽私と母と医師との、三者面談のような診察になりました。


そこで、最初に書いたように、医師から「療養したほうが良い」と告げられました。


さらに医師の言葉を詳しく言えば、
「しばらく家で療養したほうが良い。次の仕事場の見学の話も出ているようだが、いまの精神状態から言って、仕事が出来るとは思えない」
というものでした。


そして、病院をあとにして、薬局で処方せんを待っている間、派遣会社に次の仕事場である工場の見学のキャンセルを申し込みました。


・・・ここまで読んでいただいてありがとうございます。
というわけで、去年の8月末以来、また療養生活をすることになりました。


ただ、神経症と診断されたばかりの頃とは違い、現在は気分の落ち込みや不眠はありますが、頭痛や息苦しさは殆どありません。
だから、家のなかにいても穏やかに過ごせると思います。


いつこの療養生活が終わるのか、自分の適職は何なのかといった疑問も溢れるように浮かびますが、医師からは「とにかく頭を空っぽにして休んでください。」と言われたので、焦らず、自然とそういうことが考えられる状態になるまで待とうと思います。


また、保険証の再発行と国民年金の免除は近いうちに行うつもりです。


・・・今回のことを聞いた元彼女や医師、なにより母親はとても驚いたでしょう。申し訳ないと思います。
しかし、飽くまで個人的な心境について言えば、話して良かったと思います。
自分の自殺してしまいたいという思いや、体調や精神状態・・・そうしたことについて気にかけてくれる人がいることを改めて認識しました。


なんでもかんでも「神経症だから」と理由を付けるのは好きではありませんが、それでも今回に限らず私が希死念慮を抱いたことがあるということは事実です。


しかし、次にそうした希死念慮を抱いても、今回感じた「自分を気にかけてくれる人がいる」という認識を思い出して、それを乗り越えたいです。


いまは、とりあえず医師の言葉の通り「頭を空っぽにして」休みたいと思います。
だから、このブログの更新頻度も少なくなると思います(元々あまり多くありませんでしたが・・・)。


とにかく、生きるつもりです。

 

どのようにして藤原月彦から藤原龍一郎になったのか 〜俳句文学館へ行ってきました 2〜

 

こんばんは。


日付が変わって昨日は、大久保にある俳句文学館へ行ってきました。
ちなみに、前回行ったのは去年の10月30日。休みの日になる度に行きたいと思うのですが、あっと言う間に3ヶ月以上も過ぎてしまいました。


前回行ったときの記事はこちらです。よければお読みください。


http://ryjkmr.hatenablog.com/entry/2017/10/30/235347


この記事に書いたように、前回は「暗黒詩人」こと大原テルカズの句集を中心に読みましたが、昨日はまた別の句集を読みました。


それが藤原月彦『貴腐』(1981年 深夜叢書社)。


以前にもブログで書きましたが、この句集は歌人としても知られる藤原龍一郎さんが「月彦」の俳号で上梓されたものです。


今回も長くなるので、目次つきでどうぞ。


1 歌人藤原龍一郎の作風


2 『貴腐』


3 どのようにして藤原月彦から藤原龍一郎になったのか


1 歌人藤原龍一郎の作風


広く知られていますが、藤原さんの歌人としての作風の特長は、固有名詞が多く歌に詠まれていることです。


去年ご本人からいただいた歌集『花束で殴る』(2002年 柊書房)にも、このような歌が収録されています。


平成四年晩秋冥し敗戦の茂吉の秋も暗かったろう


『磯野家の謎』にかかわる一刻もせつなき世紀末のエスプリ


中島みゆき「遍路」にサナトリウムなる単語はありて、闇、深き闇


MXテレビがきっと映すだろう世紀末東京の滅亡


都市の生むうたかたとしてぬーべーやキューティー・ハニーも熟れよ爛れよ


私は藤原さんの短歌に知悉しているわけではもちろんありませんが、恐らく藤原さんはこうした固有名詞を置くことで、短歌のなかで時代感を克明に記録しようとしているのだと思います。
そして、その記録を「あの頃あんな時代だったよね」とノスタルジーに身を任すためではなく、むしろ「あの時代に自分はなにを考えていたのだろう」と、時代と自分を対峙させるために書き留めているのだと思います。それを示すようにそうした固有名詞と合わせて「冥し」「せつなき」「闇」「滅亡」「うたかた」といった、悲しさを感じさせる言葉が置かれています。
そういえば、『花束で殴る』に収録されている歌ではありませんが、個人的に印象に残っている歌として


精神に文学的な傷痕のありてアクション仮面になれず


というものがあります。この歌も「アクション仮面」という固有名詞が短歌に置かれているインパクトばかりに気を取られてしまいそうですが、「文学的な傷痕」とは何かということを考えなければいけないと思います。


長くなってしまいましたが、まず歌人としての藤原さんの作風について、大まかではありますが解説しました。


2 『貴腐』


しかし、『貴腐』に収録された句は、そうした歌人としての作風とはつながりづらいものが多いです。
『貴腐』には「貴腐」から「デジャ・ヴュ」までの全10章に分かれて句が収録されていますが、各章ごとに特に気になった句を並べてみました。


貴腐
夏は闇母よりわれに征露丸
手に足に胎内に今日野菊咲く
足音のむかしへ続く寒の暮


地動説
剃刀を泉にあらふ夢のあと
合せ鏡のうしろに花の骨見ゆる
鶏頭に憑きし兄弟姉妹かな


火の昔
寒凪のさなか世界は忌のごとし
薄荷水吸ふ口中にある前世
四季尽きて蛇輪廻する廃区かな


お伽野行
蝶々に憑きわれを追ふ狂気かな
春雷が照らす手相のわが荒野
青蜜柑吸ひて未生の罪いくつ


憑依論
夢つきてわが生前の千の夏
転生の終りはいづこ星月夜
残菊の前に後に死者生者


彼岸考
流木になぜ雌雄なき夕日かな
秋蛍飛ばば此処より中世か
逝く秋の身に水毒はあふれけり


光陰
春の血を舐むれば睡し西枕
救世主(メシア)いまこの地に死せり草の花
隣国も雪か明治のオルゴール


さかしま
死者とゐて空気濃くなる麦畠
汝おもふゆゑにわれ亡き木下闇
噴水にわが霊は濡れゐたりけり


彼方
万緑を負ひ方舟にとほくなる
夢のはてまた金雀枝にたどりつき
なかんづく日暮は兇器冬の芹


デジャ・ヴュ
春浅き夢も少年探偵団
花文字の巴里も羅馬も受難節
情人の虚言癖貴腐葡萄園


私は、『貴腐』のこれらの句を見て、まるで万華鏡を覗いているような気分になりました。飽くまで私が特に気になった句での話ですが、使われている季語自体に聞き慣れないものはあまりありません。「夏」や「春」といった、季節がそのまま詠まれている句もあります。
しかし、その季語を取り囲む世界観が尋常ではありません。思い切って言えば、常軌を逸しています。
例えば、


夏は闇母よりわれに征露丸


「夏」と聞いて思い浮かべるのは、照りつける太陽の明るさではなく、「闇」です。そして、その闇のなかで「われ」は「母」に「征露丸」を渡されています。薬が持つ不健康なイメージも先ほどの夏の明るさとはストレートに結びつきづらいものがあります。そして、「征露丸」の表記が、現在の「正露丸」ではなく、日露戦争の頃に開発された当時(露西亞を征服するという意味)のものであることも、妖しげなノスタルジーを感じさせます。


あるいは、


春の血を舐むれば睡し西枕


この句にも「春」の朗らかさは全くありません。「血を舐むれば睡し」という退廃的な世界観が続きます。そして「西枕」。風水では北枕は縁起が悪いとして知られていますが、西枕も特に若い人の活力を奪う方角とされ、避けるべきとされています。このように、終始不穏なイメージが展開されています。


こうした妖しげな、不穏な、しかし美しい世界観が、私が『貴腐』の句を「万華鏡を覗いているよう」と感じた理由です。つまり、季語が原石だとすれば、それらを俳句という筒のなかに散らばせてグルリと傾けることにより、聞き慣れていたはずの季語が途端に別の風景を見せはじめるのです。


この句集の解説は、作家の中島梓栗本薫)が書いていますが、彼女はこれらの句について


「藤原月彦にとっての春夏秋冬は、もはや決して花鳥風月ではありえない。」


と評しています。まことに的を射た評だと思います。
あるいは、前回に俳句文学館へ行ったときの記事でも取り上げた本ですが、『怖い俳句』(2012年 幻冬舎新書)のなかで、著者の倉阪鬼一郎俳人・藤原月彦について「出現それ自体が事件と言われた耽美派俳人でした。」と評しています。いま読んでもクラクラするような妖しい美しさが色褪せていないのですから、初めて藤原月彦がその俳句とともに俳句の世界に「出現」したときの衝撃は相当大きかったのだと想像出来ます。
『貴腐』は、そのような妖しい美しさを放つ句集でした。


3 どのようにして藤原月彦から藤原龍一郎になったのか


しかし、私は『貴腐』を読み終えたとき、ある疑問が生まれました。疑問というよりはギャップと呼ぶべきでしょうか。
それは、先ほど述べた、現在知られている歌人藤原龍一郎の固有名詞を多く用いて、時代と自分を対峙させる作風とのギャップです。


なお、現在も藤原さんは俳句も詠まれていますが、既に「月彦」の俳号は用いていません。短歌・俳句ともに「藤原龍一郎」の名前で詠まれています。


いま、手元にある藤原さんの句を確認出来る資料としては同人誌『豈』第60号があります。
そこでは、「東京句集・拾遺」というタイトルで


りんかい線のひらがなあはれ梅雨曇
雑誌売る夜店をのぞく夢声かな
白雨過ぎ能町みね子なる知恵者


といった20句を寄せられています。やはり「りんかい線」「夢声」(徳川夢声)「能町みね子」といった固有名詞が句に詠まれています。


これらの句風は、歌人としての作風とつながりやすいものであり、言い換えれば『貴腐』の幻想的・耽美的な句風とは離れているように感じます。


気障な言い方を承知で言えば、藤原龍一郎は、どのようにして藤原月彦から藤原龍一郎になったのでしょうか。


その疑問を解く鍵が、やはり『貴腐』の中島梓の解説にありました。曰く


「生きて走る馬をうたうのはすでにこの、競馬場でしかかれらを見ぬわれわれにとっては虚偽である。ならば、われわれは、回転木馬を、天空をかけるペガサスをうたうべきではないのか?藤原月彦はそう妖しくいざない、そそのかす。」

 

この解説の「生きて走る馬をうたうのはすでにこの、競馬場でしかかれらを見ぬわれわれにとっては虚偽である。」という主張には深く肯けます。


藤原さんの俳句についての感想とは少し離れてしまいますが、私は俳句に於ける「有季定型」が即ち季節感に与する作風であるという暗黙の了解のようなものに強く疑問を抱いています。
「夏は闇母よりわれに征露丸
「春の血を舐むれば睡し西枕」
繰り返すように、これらの句は所謂一般的な季節感とは離れています。
しかし、季節感をー特にあらゆる細分化・流動化が進む2010年代に於いてー俳人が共有することは可能でしょうか。
いや、俳句以前に人間の情緒として、全ての人間が夏になれば明るくなるわけでも、春になれば朗らかになるわけでもないことは自明の理です。
「有季定型」とは、文字通り季語が有り定型の句を指せば良いのであって、その季節の情緒は別問題だと思います。


そのことに目を瞑り、季節感に与する句しか詠まない・詠めないということは、まさしく中島の「生きて走る馬をうたう虚偽」と呼べます。


しかし、そのあとの「われわれは、回転木馬を、天空をかけるペガサスをうたうべきではないのか?藤原月彦はそう妖しくいざない、そそのかす。」という部分には正直同意しかねます。
恐らく、『貴腐』は中島の指摘する俳句に於ける「虚偽」をつきぬけて、ひとつのファンタジーとして世界観を完成させた句集でした。


しかし、当時の藤原月彦には、そうしたファンタジー的な要素への作風の強まりと同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上に季語の共有性の虚偽という問題意識が強くあったのではないかと思います。


これは、詳しくは、第一句集『王権神授説』(1975年 深夜叢書社 俳句文学館には所蔵されていないと思います)から、現在に至るまでの藤原さんの俳句・短歌を勉強しないと分かりませんが、恐らくは季語の共有性の虚偽、及びその季語と自分との対峙に難しさを感じ、結果として固有名詞という時代の限定性が逆説的に持つ共有性に自分を対峙させるという作風に行き着いたのではないでしょうか。


だから、先ほどの中島の「回転木馬を、天空をかけるペガサスをうたうべきではないのか?」という問題提起について言えば、現在の藤原さんは、回転木馬を短歌や俳句に詠んだとしても、それは実景としての「メリーゴーランド」であり、ファンタジー的な「回転木馬」ではないと思います。増して「ペガサス」が詠まれるということは無いでしょう。


つまり、藤原さんは、『貴腐』に於ける季語の共有性の虚偽という問題意識から始まり、固有名詞という共有性に辿り着くことで藤原月彦から藤原龍一郎になったのだと思います。


今回、俳句文学館で『貴腐』を読んだことは、その句集の世界観に惹かれるだけではなく、藤原龍一郎さんという一人の作家について考え直す機会を与えてくれた体験でもありました。


そして、藤原さんがそうした季語の共有性の虚偽についてストレートに詠んだ短歌を『花束で殴る』から引用します。


紫陽花をまた詠いたる心情を嘲笑いこの憎き紫陽花


自分も紫陽花を、桜を、紅葉を憎んでみたい。そして、可能ならその感情を俳句として詠んでみたい。そう思います。


藤原さんとは歌集や俳誌を沢山送っていただいたり、メールでもやりとりをさせていただいていますが、実際にはまだ一回しかお会いしたことがありません。
私も俳句を詠む身として、俳人としても歌人としても高名な藤原さんは改めて凄い方だと感じます。そうした人物は、ほかに思いつくとしても寺山修司しかいないのではないのでしょうか。
今度またお会いしたら、このブログに書いたことを訊いてみたいと思います。