今夜は眠れるかな

木村リュウジのブログ。神経症患者としてでなく、ひとりの人間としての日々の思い 。Twitter→(https://mobile.twitter.com/ryjkmr)

診察の度に思うこと

 

こんばんは

 

今日は埼玉医科大学病院まで、診察に行ってきました。

 

前回の診察は11月の上旬でした。最近のブログにも書いたように、このころは仕事に馴染むことが出来ず、希死念慮もひどかったのですが、今日の診察では「比較的、いまは落ち着いています」と報告することが出来ました。

そして、医師からも「顔色を見ると元気そうです。」と仰っていただきました。

 

薬の量は、抗不安剤睡眠導入剤ともに年末年始に病院がお休みになる関係でいつもより少し多く処方してもらいました。

 

そうした感じで、今日の診察は特に問題も無く終わったのですが、実は、診察の度に思うことが二つあります。

 

まず一つ目は、自分の病状を伝えることの難しさ。

 

以前、「心の病は、ひとつの心のなかに病気になった心とそれについて色々なことを感じる心とが一緒に存在しているので、その線引きが難しい」といったことを書きました。

 

http://ryjkmr.hatenablog.com/entry/2017/10/18/011939

 

今回の診察でも、その難しさを感じました。例えば、診察室に入り医師から「最近の具合はどうですか?」と訊ねられました。

そうすると、それに対して「落ち着いてます」か、あるいは「不安感が強いです」といった漠然とした答えしか返せないことを改めて感じました。

 

体調が悪いときに、ノートに「どういうことが不安なのか」「どういう風に体調が悪いのか」といったことを書き留めておくということも考えたのですが、自分の場合、体調が悪いとひたすら横になっているしかないので、それは出来ないと気付きました・・・( ̄▽ ̄;)

(ちなみに、心の病を持つ人のなかにも、毎週毎週、丁寧にご自身の健康状態を記録されている方もいらっしゃいます。スゴいなぁ・・・)

 

そして、その漠然とした答えしか返せないという悩みは、医師に自分のいまの状態をきちんと伝えられているのかという不安へ続きます。

まぁ、医師も心療内科のプロですし、目の前の患者の話だけではなく、その話し方の印象や、いままで接した他の患者との比較から考え診断しているでしょうから、全く的外れということは無いと思いますが・・・。

 

とにかく、もう少し自分の体調をきちんと伝えられるようにしたほうが良いと思いました。

ちなみに、毎日の薬の服用量(休日や、体調が良いときは服まないこともあります)はメモしています。これは、今後も続けていきたいです。

 

もう一つは、診察時間の短さ。

病院の待合室には他の患者がいることも分かりますが、毎回、5分か10分かくらいで診察は終わってしまい、やはり短いという印象が強いです。

初めて埼玉医科大学病院の診察を受けたときは問診票を書いて、「いまの自分の心の不調の原因」といったことについても丁寧にカウンセリングしてくれました。

しかし、その問診票とカウンセリングの結果、一度「神経症」の診断が下ると・・・言葉は悪いですが、機械的に治療されている気がどうしても拭えません。

もちろん、診察によって自宅での療養から仕事に復帰出来るまでになったので、効果は感じています。

 

ただ、特に体調が悪いときは、「早く病院で相談したい」という思いが強いだけに、実際に話す時間が5分か10分という診察では、モヤモヤとした気分が残りました。

先ほど書いた「自分の体調をきちんと伝えられない」という自分の問題とも関係しますが、やはり「もっと話を聞いてほしい」と思います。

神経症に限らず心の病を持つ人は、こうした悩みを抱えていないのか、抱えているとしたら、どのようにして対応しているのか、ということも機会があれば知りたいです。

 

というワケで、診察の度に思う二つのことでした。以前から思っていたことでしたが、今日診察に行き改めて感じ、よい機会だと思い書き留めておきました。

 

次の診察は来年の1月10日の予定です。いまの治療の目標は、二つの薬とも減薬することです。

 

では、おやすみなさい

 

節目


こんばんは

 

久しぶりのブログ更新です。

 

前回の更新は俳句文学館に行ってきたときに書いた記事の追記のお知らせだけだったので、実質的な更新はおよそ2週間ぶりとなります。月日が経つのは早いなぁ、と改めて思います。

 

最近のブログからもお分かりいただけるように(苦笑)、11月は不調でした・・・。

 

10月から始めた仕事は、多分1ヶ月くらい過ぎた11月上旬あたりが一番つらかったと思います。

 

でも、その後さらに1ヶ月経ったいまでは、それほどのつらさは無くなったように感じます。

 

振り返ってみれば、8月に医師から「働いても大丈夫」と仰っていただいたとき、それと合わせて「神経症のひとは、周囲の人間関係や、周りの人の理解が得られる環境がとても大事になってくるので、それが見つかるまでは時間がかかるかも知れない」と言われたのですが、
その言葉の意味を身をもって知るような1ヶ月でした。

 

自分が周りの上司からどう思われているのか考え過ぎて、神経が過敏になっているのが自分でも分かりました。
デスクの後ろに置いてあるコピー機の稼働音がひどく耳障りで、胃が痛くなるほどでした。


そして、これは11月のブログでも書いたことですが、そうした神経の過敏さと合わせて起こっていた希死念慮もつらかったです。

 

ただ、それから日にちを重ねていくうちに、そうした思いは自分のなかで少なくなっていきました。


一つ目の理由としては、仕事を覚えて、行う作業に自信が持てるようになったことがあると思います。
二つ目の理由としては、徐々に上司と打ち解けていったことがあると思います。
私が働いている会社は食品を扱う運輸会社なのですが、賞味期限が近くなった商品を上司やドライバーの方からいただくことがあります。
そうされることで、「自分は周りの人から嫌われていない」と感じ、安心して仕事をすることが出来るようになりました。
そして、その安心感が、一つ目の理由で述べた仕事への自信につながり・・・という好循環が生まれつつあります。

 

本当はその過程をもっとこまめにブログで更新出来たら良かったのですが、皮肉にもその仕事が忙しく、なかなかそれが出来ませんでした。

 

いまも、抗不安剤を1日3回服み、また寝る前の睡眠導入剤も服んでいる状況には変わりありませんが、比較的落ち着いた気分でいられています。(ただ強いて言うなら、以前にもブログに書いた睡眠導入剤を服んだ翌朝のだるさは少し気になっています)

 

これからもこうした状況が続けば良いと思います・・・って、なんだか気分が落ち着いたときに毎回言っている気がするなぁ(苦笑)

 

実は、5月31日に初めて神経症の診断を受けてから、11月30日に半年を迎えました。本当はそのことも当日に書きたかったのですが・・・。
この半年間を振り返ってみると、とにかく「情緒の波に振り回された」という印象が強いです。
サーフィンに例えるなら、上手く波に乗れていると思ったら足元をすくわれ、たちまちサーフボードごと波に溺れてしまう・・・といった繰り返しでした。 

 

そして、ここからはいよいよ重たい話になってしまうのですが・・・
10月から仕事を始めたもののつらかったとき、具体的な日付けまで決めて、自殺してしまおうと考えたことがあります。

 

「病気が重くてずっと家にいた頃を経て、派遣の仕事からやっと固定のアルバイトが決まったのに、どうしてそのアルバイトもこんなにつらいんだろう。
こんな仕事、辞めてしまいたい。でも、派遣の仕事もキツい。もしかしたら、ずっとこのままつらい状況が続くのかな・・・」
そうした考えばかりが頭をもたげて、それならいっそ、自殺してしまったほうが良いのではないかと思い詰めてしまっていました。

 

でも、仕事に安心して取り組めて、上司と打ち解けていっているいまになって振り返ってみて、やはり自殺しないで良かったです。

 

私が自殺をせずにいられた理由は色々ありますが、その一番は見守ってくれる人の多さに気づいたからです。
家族、友人、医師、Twitterやブログで知り合った方々・・・。
病気についての話を聞いてくれた人はもちろん、たとえ直接病気の話をしたことが無くても、そうした人たちが何か明るい話を耳にすることで、「まだ生きていたい」と思えました。

 

ありがたいです。

 

そうした色んな人の支えを受けるうちに、結果的に自殺をしてしまえば、そうした支えを裏切ることになると考えるようになりました。
(ただし、これはあくまでも私のなかでの自殺に対する考え方であって、様々な理由から結果的に自殺してしまった人の想いを軽んじるものではありません)

 

そして、そうした支えの一つとなっているこのブログも、今回で50回目です。


最近の仕事の状況が安定してきているということと合わせて、こうした思いをこの節目に報告出来て嬉しいです。

 

これからも、そうした支えを忘れたくありません。
50回の節目に、自分に言い聞かせるように書いておきます。

 

日付けが変わって今日は休みなので、夜更かしをしてしまっていますが、さすがにそろそろ寝ようと思います。

 

冬の夜にいのちの炎燃やしけり

 

おやすみなさい。

 

大原テルカズの略歴を追記しました

 


こんばんは


先月の末に更新した記事「大原テルカズへ逢いに 〜俳句文学館へ行ってきました 1〜」に、大原テルカズの略歴を追記しました。

よければお読みください。

 

http://ryjkmr.hatenablog.com/entry/2017/10/30/235347

 

 

別れました

こんばんは


久しぶりにブログ更新をします。


まだ完全に情緒が安定してきたワケではないんですが、書き留めておこうと思ったことがあったので。


先日、彼女と別れました。


昨年の8月から付き合いはじめて、およそ1年と3ヶ月の期間でした。


別れることになった原因を詳しくは書きませんが、その1年3ヶ月の間、気づかないうちに私は彼女にたくさん気を遣わせてしまっていたようです。


申し訳ないと思います。


ただ、だからといって会いたいかと訊かれるとすぐには肯けません。
いまは、彼女と距離を置いて、これまでの日々を振り返ってみたい気持ちのほうが強いです。


失恋の体調への影響は、自分が想像していたより軽いものでしたが、それでもやはりありました。


まず、不眠。このブログを書いているいま、時計の針は午前3時を回ろうとしています。


睡眠導入剤を服めば良いのでしょうが、最近、服んだ直後と翌朝のだるさがひどく、なるべく服まないようにしています。
いま勤めている会社のアルバイトが午後12時から9時までなので、午前11時15分くらいにお昼を食べているのですが、そのだるさのために直前まで布団に潜ってしまっています。


次に、虚しさ。「これまでの日々を振り返ってみたい」という思いに嘘はありません。しかし、それはこれまで出来たことを振り返る作業でもありますが、出来なかったことを後悔する作業でもあります。
2人で出かけようと言っていた場所。
2人で食べようと言っていたご飯。
彼女からは「友達に戻りたい」と言われました。なので、全く会えなくなるワケではありません。


しかし、そうした付き合っているときに出来なかったことを数えると、やはり以前のような関係ではないことを改めて認識させられます。


そうしたとき、ふと、自分が一人ぼっちのような、ひどく虚しい思いに駆られます。


それを強く感じるのは仕事中です。
また、何故かは分かりませんが、時間があって自分が以前に書いた業務用のマニュアルを見返しているようなときよりも、
慌ただしく書類や伝票を整理しているようなときにそんな思いが強くなります。


なにか、時間の荒波に飲まれて、自分の足場が無くなってしまうような感じがします。


叶うなら、静かにゆっくりしたい。日付けが変わって今日は休日なので、そうしようと思います。


・・・病気のせいで失恋したとは考えたくありません。あくまでも私の性格の問題であり、その性格と彼女の性格との不一致に原因があると考えています。
そうでも考えないと、ますます今回の悲しみが広がっていってしまう気がするので・・・


本当は、この失恋から考えた色々なことをかいてみるつもりでしたが、考えがまとまりきれず、現状報告に終わってしまいました。
そして、結果としてこんなウジウジした記事になってしまいました。ごめんなさい


時計の針は午前3時半を指そうとしています。私のまぶたも少し重たくなってきた・・・ように感じます。


今夜は眠れるかな。おやすみなさい。

 

無題

 

こんにちは

 

昨日から体調が悪く、また気分も沈んでいます。

 

なにもしたくなくて、布団に横になっています。

 

とりあえず、最近のことをいくつか書き留めておきたいと思います。

 

・先週の台風

先週の台風の影響ですが、大久保の俳句文学館までなんともなく行けたことからも分かるように、体調を悪くすることはありませんでした。

元々、先々週の台風ほど大きなものでは無かったことも理由にあるでしょうが、とにかく良かったです。

 

・診察

11月1日、埼玉医科大学に診察に行きました。

このことは改めてブログに書けたら書くつもりですが、最近、希死念慮がまた起こりつつあります。

特に仕事をしているときによく起こります。

とにかく、「自分は周りの人に迷惑をかけるだけの存在だ」ということと、「それなら、いっそいなくなってしまいたい」ということばかり考えてしまいます。

そのことを医師に話すと、「薬をきちんと服んで、ゆっくり寝てください」と言われました。

そして、やはり自分が予想していたとおり、抗不安剤睡眠導入剤ともに前回の2週間分から、4週間分に量を戻されて処方されました。

 

・・・なんだか、10月30日に俳句文学館へ行ってから、体調が悪く、気分も沈んでいる状態が続いています。

 

以前、「夏まで生きていようと思った」という記事で、「8月の誕生日を終えて、私のなかでひとつの『この日までは生きよう』というモチベーションが無くなりつつある」ということを書きました。

 

http://ryjkmr.hatenablog.com/entry/2017/08/09/060003

 

それと似たような状態が、また起こっているのだと思います。

俳句文学館が前から行ってみたい場所だっただけに、そこへ実際に行き終わって、なんだか気が抜けてしまった感じです。

 

誕生日を迎えたとき、彼女や友人から「おめでとう」と言ってもらったことが嬉しかったように、

俳句文学館へ行けたこと自体はとても楽しかったのですが・・・。厄介ですね。

 

とりあえず、最近の状態はこんな感じです。

 

叶うなら、やわらかい布団の上でずっと眠っていたい。

誰とも会わず、何もせず。

 

ブログは、また書けるときに書きます。

 

ごめんなさい。少し疲れました

 

大原テルカズへ逢いに 〜俳句文学館へ行ってきました 1〜


こんばんは


今日は、大久保にある「俳句文学館」へ行ってきました。

 

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ここの図書室には様々な句集や俳誌が所蔵されているのですが、私のなかでの最大の目的は大原テルカズという俳人の句集を読むこと。

 

今回は、大原テルカズの俳句について書いていこうと思います。
そして、長い内容なので目次付きでお読みください。


目次


1 大原テルカズを知ったきっかけ


2 『黒い星』


3 『大原テルカズ集』


4 大原テルカズとは

 


1 大原テルカズを知ったきっかけ

 

大原テルカズの俳人としての知名度は、あまり高くありません。私も一昨年くらいに倉阪鬼一郎『怖い俳句』(2012年 幻冬舎新書)のなかで取り上げられているのを読んで知りました。


『怖い俳句』には、書名の通り江戸時代の松尾芭蕉から戦後に生まれた人まで、様々な俳人が詠んだ「怖い俳句」が収録されている本です。
しかし、そうした様々な俳人のなかでも、私のなかで大原テルカズの印象は特に強く残りました。

まず、彼の略歴を書いておきたいと思います。

 

・大原テルカズ 略歴(2017年11月26日 追記)

 

1927年 3月20日千葉県に生まれる。本名・大原照一(読み同じ)。

1941年 「大原や蝶の出(い)でまふ朧月」(内藤丈草)という句を知り、千葉中学校(現在の千葉県立千葉中学校・高等学校)3年生の夏休みより作句を始める。

1942年 俳誌『芝火』を知り、投句を始める。主宰の大野我羊に師事。太平洋戦争末期に同人となる。

1947年 法政大学経済学部入学。
1948年 結婚。

1949年 長女誕生。法政大学卒業。海神製鉄入社。『東虹』(大野我羊主宰)発刊に参加。

1953年 海神製鉄退社。
1954年 食堂経営を始める。
1956年 食堂経営が頓挫するが、後に復活する。
1958年 『俳句評論』(高柳重信等による同人誌)創刊に参加。
1959年 第一句集『黒い星』(芝火社)を上梓。
1960年 連作「全市蝋涙」で現代俳句協会賞候補となる。火曜会(高柳重信・加藤郁乎等)のメンバーとして合同句集『火曜』上梓。大阪府に移住する。『縄』(島津亮等による同人誌)に参加。
1963年 自身の出版社「新書林」より、生前に親交のあった中田有恒(1921〜1956)の没後句集『有恒句集』等を出版する。
1966年 第二句集『私版・短詩型文学全書6 大原テルカズ集』(八幡船社)を上梓。
1968年 『Unicorn』(加藤郁乎等による同人誌)に参加。
1980年 『俳句公論』(小寺正三主宰)10月号に無所属として「鶴と犬」という題で5句を発表。現在確認出来る最後の作品。
1995年 死去。没月日不明。

 

・参考資料


大原テルカズ『黒い星』(1959年 芝火社)

倉阪鬼一郎『怖い俳句』(2012年 幻冬舎新書
『俳句公論』1980年10月号

俳句九十九折(19) 俳人ファイル ⅩⅠ 大原テルカズ(冨田拓也)

http://haiku-space-ani.blogspot.jp/2009/01/blog-post_10.html?m=1

俳句九十九折(20) 俳人ファイル ⅩⅡ 中田有恒(冨田拓也)

http://haiku-space-ani.blogspot.jp/2009/01/blog-post_18.html?m=1

総合文学ウェブ情報誌 文学金魚 No.017 『Unicorn』 その二 (第2号)

 (http://gold-fish-press.com/archives/18452

 

彼の句が強く印象に残ったのは、その作風によるものです。『怖い俳句』に収録されている彼の句を紹介します。


枕辺に夢みよと誰が藁捨て置く


寝ている枕元に、何者かが「夢みよ」と藁を捨てていきます。随分と奇妙な発想の句ですし、また「誰」が何者なのか全く分からない不気味さも感じます。


その他にも、『怖い俳句』のなかに収録されている大原テルカズの句には


懶惰てふ體内の墓地晩夏光


積木の狂院指訪れる腕の坂


等があります。


まず1句目についてですが、懶惰(らんだ)とは、怠けること。自分のなかの怠ける心を「體内(体内)の墓地」と表現する重苦しさが印象的です。加えて「晩夏光」つまり、夏の終わりの光が自分に降り注いでいるのですから、「墓地」という表現と相まって、怠けるどころか、生きる気力すら感じさせないような句です。


2句目ですが、まず「積木の狂院」という表現が印象的です。「積木の家」なら微笑ましく感じますが、わざわざ「狂院」、つまり精神病院と特定されると、その雰囲気はガラッと変わります。
そして、その積木の狂院に、腕を這わせて指が訪れていると言っています。
私は、この積木の狂院に向かって、自分の腕を坂にして指を歩かせているその人物こそが、実際の狂院の患者なのではないかと思います。つまり、狂院と言っているにも関わらず、この句は狂院の内部の光景を詠んだものなのです。
大原テルカズの句について広く言われていることですが、彼の句は江戸川乱歩夢野久作の怪奇的・猟奇的な作風と似通った部分があります。
この句は、そうした部分が前面に押し出された句と言っていいでしょう。


このように『怖い俳句』で知ったときから、俳号がカタカナであるという珍しさも合わさって、大原テルカズの句は忘れられないものになりました。
早速句集を読んでみたいと思いましたが、彼の句集は2冊しかなく、しかもどちらも半世紀以上前に上梓されたものであり、Amazonにも古本屋にも出回っているのを見つけられませんでした。
また、俳句文学館の存在は知っていましたが、なかなか都合がつかず行けませんでした。


しかし、今回都合がつき、また俳句文学館にその2冊の句集ともあることを確認出来たので、思い切って行くことにしました。


2 『黒い星』


俳句文学館の図書室は、俳誌の最新号や、歳時記、俳人名鑑といった本はそのまま本棚から手に取って読めますが、その他の多くの本は専用の紙に書名等を書いて、司書の方に書庫から持ってきてもらう仕組みになっています。
大原テルカズの2冊の句集『黒い星』と『私版・短詩型文学全書6 大原テルカズ集』も、そうした書庫に入っているものでした。

 

ちなみに、句集の書名についてですが、『大原テルカズ集』は何冊かあるシリーズの1冊として上梓されたのでこうした平凡な書名です。しかし、一方の『黒い星』という書名は、これまで述べてきたような作風の印象をより強く感じさせます。

事実、この『黒い星』のイメージからでしょうが『怖い俳句』のなかでも大原テルカズは「暗黒詩人」と称されて紹介されています。


2冊の句集の書名を専用の紙に書いて司書に渡すと、いよいよそれが運ばれてきます。
『黒い星』『大原テルカズ集』ともに、いままでそのタイトルだけ知っていて全貌が掴めなかった本でしたから、やはり実際に手に取ったときは感動しました。


私は、『黒い星』のほうからそのページを開きました。最初に大原テルカズの師にあたる俳人・大野我羊の序文、次にテルカズと親交のあった俳人・高柳重信の「序にかえて」という文章を経て、いよいよ俳句が始まります。


しかし、『黒い星』の最初に載っていた俳句は、次のようなものでした。


冬晴のオリーブの葉を嗅いでみる


思わず「えっ?」と声を挙げそうになりました。「暗黒詩人」としての大原テルカズのイメージからはあまりにもかけ離れた、さわやかな句だったからです。
しかし、それもそのはずでした。この句には「千葉中学」と前書があります。先にも書いたように、彼は1941年、千葉中学校3年生のときに作句をはじめましたから、まだはじめて間もない頃の句だと考えられます。


その後も、


歸るほかなし寒潮旣に夜へ走る


といった、割と目で見た風景をそのまま読んだ句が見受けられました。


『黒い星』を読んで、彼の作風が変わりはじめたのは終戦前後の頃だったと感じました。
終戦後に詠まれた句には、


陣痛の眼に兵隊の靴溢れ


ポケットからパンツが出て來た淋しい虎


といった、単なる風景から感じたことそのままではないものが増えているからです。


また、


十三夜廻舞臺のハムレット


複製の「狂女」(スーチン)と飮めり


といった西洋の文化をモティーフにした句も見受けられました。(ハムレットは言うまでもなくシェイクスピアによる演劇。スーチンとはカイム・スーチンというロシア生まれのユダヤ人画家で、「狂女」とは彼の作品のひとつ)


その後も


要保護者夜鳥のこえの間斷に


蠅わんさ來て絶叫の口掩う


といった不気味な句が並び、ここまで来ると私のなかの「暗黒詩人」のイメージと、実際の句から受けるイメージとが一致していきました。


特にすごい句だなと思ったのが


幼稚園葉桜吾子ら髑髏の實


という句です。句の解釈としては、葉桜の季節に幼稚園で自分の子を含む子供たちが遊んでいる。この子たちも、いまは可愛いけれど、きれいな桜が葉桜となりやがて冬木となるように、既に髑髏となる運命を潜んでいる、といったところでしょうか。
この解釈、そして「髑髏の實」という表現からも充分に不気味なのですが(笑)、特筆すべきはこの句の前書です。
この句の前書には「昨秋長女擬似日本脳炎たりしも障害なし」とあります。つまり、「昨年の秋、長女が日本脳炎のような症状になったが、後遺症となるような障害は無く治った」ということです。
この前書と合わせて読むと、句の不気味さは一層引き立つと思います。
つまり、テルカズは日本脳炎のような症状から治った長女が、幼稚園で他の友だちと遊んでいるという喜ぶべき実体験を見ても尚「吾子ら髑髏の實」と言うのです。
この句は大原テルカズのなかでもあまり知られていません。私も今日はじめて『黒い星』を読んで知りました。
しかし、私はこの句に俳人としての大原テルカズの本懐があると思います。
本来なら喜ぶべき体験を以て尚、人間の死を見つめようとするテルカズの姿には凄みを感じます。
『黒い星』を読み終えて、最も印象に残った句でした。この凄みに浸るまま、私は句集を閉じました。


3 『大原テルカズ集』


続いて『大原テルカズ集』を手に取りました。テルカズの2冊目のこの句集には、『黒い星』からの抜粋と、「心犬抄」という題で65句が新たに詠まれています。


今回「心犬抄」を読んで分かったのは、『怖い俳句』に収録されている句は、『大原テルカズ集』からの引用のほうが多いということ。先ほど紹介した


積木の狂院指訪れる腕の坂

も、「心犬抄」のなかに収録されています。


また「心の犬」という表現はテルカズにとって大きな意味を持っていたようで、『黒い星』にも


海坂に心の犬が曳くびっこ


占領旗心の犬が痺れいます


蒼いおけさで 心の犬煮つめる


といったように、多く登場しています。
しかし、「心犬抄」には「心の犬」という表現はあまり登場しません。強いて挙げるとすれば


母よ心犬咲くや波濤の肺


くらいでした。
恐らく、タイトルに「心犬抄」と付けた分、あえて句にはそうした表現を使わないように意識したのだと思います。


そうした「心犬抄」の全体としての印象ですが、『黒い星』より表れはじめた自分の心の内部が、より深く表現されていると感じました。また、そのため表現もより難解になっていると感じました。


例えば、


自説のような裏町混血の膿ひらく老婆


マッチに青い坊さんの群兄ら帰らず


星の領海エコーの頭蓋母ははハハ


といった句は、正直今日の今日ではそれぞれの単語に圧倒されるばかりで、まだ解釈の段階まで辿り着けていません。
でも、『黒い星』『大原テルカズ集』ともに気になった句は書き写してきたので、これからゆっくりと句に向き合っていこうと思います。(悪筆ですみません)

 

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4 大原テルカズとは


最後に、今日俳句文学館に行き、大原テルカズの俳句に触れたことから、自分のなかのテルカズに対する考えを書いてみたいと思います。
繰り返すように、大原テルカズは『怖い俳句』のなかで「暗黒詩人」と称されて紹介されており、句もそうしたイメージを裏付けるものが多いです。
また、これも繰り返すように彼の句は江戸川乱歩夢野久作の怪奇的・猟奇的な作風と似通った部分があります。


しかし、


幼稚園葉桜吾子ら髑髏の實


という句で感じた凄みからも、テルカズは乱歩や久作のように、全くのファンタジーとして怪奇的・猟奇的な句を詠んだわけではないと思います。
『黒い星』の「序にかえて」のなかで、高柳重信はテルカズの句についてこう述べています。


「いま、僕の眼の前には、この十余年間に、彼が秘かに剽めとり、秘かに貯えてきた多くの財宝が、――すなわち、『幼さ、卑しさ、愚かさ、古さ、きたならしさ、ひねくれ、濁り、独善、悠意』と彼が呼ぶところのものを蒐めた、句集『黒い星』がある。」


こうしたテルカズの、自身の句に対する認識を考えると、彼の句のなかの不気味な表現は、彼が人間に対して、そして自身に対して持っていた極めて強い性悪説的な考えの、切実な表れだと思います。


テルカズの句には


終湯は明日への穴のごと黒し


というものがあります。「終湯」(しまいゆ)とは、銭湯での最後のお湯のことです。その日1日多くの人が浸かった湯ぶねは、いくら浸かる前に体を洗うとしても垢で真っ黒になっています。
そうした終湯に入るということは、テルカズがそのくらい遅い時間まで働いて疲れ果てているということでもあります。
そして、その日の疲れを癒すためせめて入ろうとした銭湯でも、自分の前に広がっているのは垢で真っ黒になった湯ぶねです。
「明日への穴のごと黒し」という表現からは「明日からもこんな日々が続くのか・・・」と、ため息とともに漏れた言葉を想像出来ます。


先ほど、


幼稚園葉桜吾子ら髑髏の實


という句の凄みについて述べましたが、よく考えたら自分の子どもに「髑髏の實」という表現を充てている時点で、自身も「髑髏の實」であることを踏まえているのでしょう。


テルカズの一見不気味に、また難解に感じる表現にも、そうした自身について、生活についての切実な思いが潜んでいるのかも知れません。


しかし、そうした句を詠み続けることは恐らく体力的も、精神的にもしんどかったのではないでしょうか。
1966年に『大原テルカズ集』を上梓したテルカズは、2年後の1968年に『Unicorn』という、加藤郁乎等が中心となった同人誌の発刊に参加しますが、創刊号に参加したきりで『Unicorn』から離れてしまいます。このあたりから、寡作になっていったようです。
そして、そのあとは時折どこかの俳誌に作品を発表していたようです。
『俳句公論』(小寺正三主宰)1980年10月号に「鶴と犬」という題で


霊安所くずれ十字の霧腰かけ
孫曳くや黄泉をローマの石流れる
鶴と犬との骸に沈み霜蜥蜴
ししむらのコロナに次ぐや霜の華
脳裡緋に藍はた銀に或る町あり


という5句を発表します。これが現在確認出来る大原テルカズの最後の作品です。


そして、『怖い俳句』によれば1995年に亡くなったそうです。


今回、大原テルカズの句にまとめて触れ、彼に対する「暗黒詩人」としての印象は一層強まりました。
しかし、繰り返すようにそれが自身や生活の苦しみから表れた切実な表現だとすると、そうした呼び方だけで済むような俳人ではないことも感じました。


これから、少しずつではあっても大原テルカズの句に触れる人がいれば良いと思います。


また、俳句文学館では、大原テルカズの句集以外にも、はじめて読めた句集や俳誌がありました。
それらのことは、次の機会に書こうと思います。


では、おやすみなさい

 

台風

こんばんは


今日は、神経症の診断を受けてから初めて経験した台風について書き留めておこうと思います。


今週のはじめ、日曜日の夜から月曜日の明け方にかけて日本列島を勢力の強い台風が襲いました。


関西では、日曜日の夜に大阪府奈良県にまたがって流れる大和川が氾濫する等、大きな被害が出たようでしたが、皆さんがお住まいの地域では大丈夫だったでしょうか?


私の住んでいる埼玉県も、そこまで大きな被害は無かったものの、やはり家の壁が揺れるほどの風が吹き、一晩中雨戸がガタガタと鳴っていて、大変に騒々しかったです。


しかし、私を困らせたのはそうした夜のこと以上に、日付が変わって月曜日になってからのことでした。


気圧が乱れると、頭痛等の体調不良が現れる人がいますが、神経症等の心の病になると、特にそれがはっきりと現れるそうです。


神経症ではありませんが、Twitterでフォローしているうつ病の方も台風の気圧の乱れによる体調不良を心配していましたから、やはり心の病を抱えた人に広く当てはまることなんだろうと思います。


そして今週の台風は、私にもそうした体調不良を感じさせました。
月曜日のお昼頃。風は強かったですが、空には台風一過と呼ぶのに相応しい抜けるような青空が広がっていました。


私はその日仕事が休みだったのですが、ある用事のため東京のある場所まで出かけていました。
段々と体調が悪くなっていったのは、その用事を済ませ、帰り道の駅まで向かおうとしていたときでした。


具体的な症状としては、頭痛や息苦しさの他に腹痛がありました。いきなり歩けなくなるくらいにお腹が痛くなってしまいました。


駅のお手洗いに行き、しばらくホームのベンチで休んでいましたが、やはり頭痛や息苦しさは良くなりませんでした。


実は、月曜日はその用事の他に、夜からまた都内の別の場所で用事があったのですが、この体調では行けないと考え、やむを得ず欠席の連絡をしました。
体調不良が原因とは言え残念ですし、申し訳ないと思いました。


お昼頃の用事から夜の用事まではだいぶ時間があったので、都内のどこかで時間をつぶそうと最初は考えていましたが、そんな場合ではなくなり、そのまま家に帰りました。


家に帰ったらすぐに横になりましたが、頭痛と息苦しさは良くなりませんでした。また、少しですが腹痛も続いていました。


最近は頭痛も息苦しさもほとんど治まりつつあったので、久々に苦しい思いをしてしまいました。


やがて、横になっているうちにいつの間にか眠ってしまい、目が覚めたときには少し体調が良くなっていました。
それからは、普通に夕飯も食べることが出来ましたし、睡眠導入剤は服みましたが、寝る前の頭痛や息苦しさもなく眠れたといった具合で、体調は安定していきました。


実は、日曜日の朝、起き抜けに頭痛が起きていました。会社に行けるかどうか、考えもしました。
それでも働けないほどの体調ではなかったので、会社に行きました。
また、仕事中も時々頭痛はありましたが、どれも軽いものでした。


しかし、考えてみると、それが月曜日の体調不良の最初のサインだったのかも知れません。
また、自分のなかで「気圧の乱れによる体調不良は、天気が一番悪いときに起こる」という思い込みもあったので、台風が最も近づいた日曜日の夜になんともなかったことで安心してしまったのだと思います。
台風一過の後の体調不良というのは、全く予想外でした。


月曜日に仕事が休みだったのはせめてもの幸いでしたが、いま心配なのは、そんな勢力の強い台風がまた今週末に日本へ近づいてくることです。
正直、自分の力でどうにか出来る部分と出来ない部分がありますが、それでも用心はしたいです。


私は、神経症の診断を受ける前は、そうした気圧の乱れによる体調不良は全くありませんでした。
また、これまでにも雨の日に頭痛が起きることはありましたが、やはり今回ほど激しい雨風ではありませんでした。


そのため、はじめに書いたように、神経症の診断を受けてから初めて経験した台風であり、正直大変でした。


とりあえず、来週の月曜日は朝から布団のなかで自分の体調の様子を見てみようと思います。


では、また。